こんにちは「電子化と見える化でらくらく片づけ」を提案するライフオーガナイザーⓇピスチコです。
東京にいる親戚のAちゃんがダンスの専門学校に入学しました。
その子のママがその入学式の様子をこんな風に表現していて見たわけでもないのに、目に光景浮かんじゃった。
Aちゃんおめでとう!素敵なダンサー目指してね。
お洒落で可愛い子たちがいっぱいいるんだろうな。
好きなことをして生きていけるなら、多少辛くてもきっと頑張れる。
人と違う事をして生きていく
あの手塚治虫さんでさえ、漫画家になることを母親に一時期反対されていた。
それでもやはりその才能と、忍耐力は世に出ることになる。
彼が最初の作品を完成させたのは小学3年生のとき、
漫画を書くことで、彼はいじめられっ子から人気者に。
クラスの担任は彼が漫画を書くことを黙認し、母親の反対もやがてなくなる。
彼は漫画家のカリスマとして、今も話題の人です。
私の音楽人生
母がピアノ教師だったことが大きく影響して、3歳からピアノとヴァイオリンを始める。
帯広ではその頃たった一つのお教室だった橋詰音楽教室の門下生としてヴァイオリンを、
母のピアノ教室の生徒の1人として、ピアノをそれぞれ習い始める。
どういう経緯か覚えていないが、札幌交響楽団の方を講師に迎えて、ヴァイオリンの小さな教室ができた。
生徒は数名、誰かの家に先生を呼んでのレッスン。
発表会も数回行われた。
小学5年生の時、STV音楽コンクール(今は開催されていない?)で賞を受賞したことがきっかけで、
高校から音楽の道に入る準備が始まる。
中学に入ってからは週一回1人で東京へ、桐朋音楽大学の先生について実技とソルフェージュのレッスンに通うことになる。
ヴァイオリン中心の子供時代だった。
そして1番問題なのは、私が実はこの受験にあまり乗り気ではなかったこと。
私の人生だというのに選択肢はなく、決定権もなかったからです。
そして高校入学
なんとか合格して高校へ入学。
桐朋は実技ももちろんだけどソルフェージュがまた結構難関で、今まで受けてきたものとは全く違う。
芸大もレベル的に恐ろしく、東京音楽大学の付属高校へ。
この高校は、東京都文京区護国寺にありました。
私は寮に入ったので、比較的いろんなところから来ている人達がいると励まされたのですが、
やはり、生粋の東京仕込みの教育を受けてきた人達は違った。
「東京は田舎者の集まりだ」たしかにそうかも知れない。
でも、教育面ではここに一流が集っている。
特に私の場合一流の田舎者だったので……打ちのめされることになる。
田舎でちょっとくらいすごいと思っても、都会に出たら良くて中の下。
価値観の違いに打ちのめされ、「テクニックが違いすぎる」事実に打ちのめされ。
「育った環境は生きるのにどれだけ影響するか」というテーマにもぶち当たった。
もう今さらだけど、母を恨み、ヴァイオリンを床にぶつけて叩き割りたくもなり。
「自分は少しは弾けるんだ」なんて高くなっていた鼻はへし折られ、
実技試験は苦痛なものとなる。
絶対音感だけは持っていたので、ソルフェージュ(特に聴音)だけは楽しくて、
生活面で言うなら高校はとても楽しく、本当に通えて良かった。
ヴァイオリンがなかったら、私はここに存在しなかったから。
大した物にはなれなかったけど、すべてを投げ打って支えてくれた母に、今は感謝する。
環境で人は変わる
髪色絵の具パレット状態の専門学校でダンスを学ぶAちゃんは、
たくさんの個性の中に自分を置いて、
ダンスを通して自分を見つけるでしょう。
芸術ってその人が出るんです。
音楽にもダンスにも隠せないその人の個性がガッツリ出ます。
だから素敵な方の醸し出すものは素晴らしく、
努力したその事実はその表現をより美しくパフォーマンスする力となります。
「この人天才」という人に何人か会ったけど、1番印象に残っているのは
「ヴァイオリン弾くのなんて、飯食ったり、寝たりするのと一緒だ」と言っていた彼の一言。
私は練習が嫌で嫌でたまらなくて育ってきたのに、この人には絶対勝てないなと思った。
北海道から無謀にも都会の土俵に登ってみた私の、
成功とも失敗とも言えないストーリーです。
東京に飛び出したり、海外に飛び出したり、自分を見つける方法はたくさんある。
環境を変えるには片付けももちろん大切で、手っ取り早い方法かも知れない。
人と違うことをするのは大変だけど素敵なことで、
できるならそれが「あなたの好きなことで夢中になれることであれ」と願っています。
髪色絵の具パレット状態